夜、暑くてなかなか寝つけなかった。エアコンをつけるか迷って、結局窓を開けて扇風機だけにした。遠くで花火の音が聞こえた気がした。どこかで誰かが、夏を楽しんでいるんだろう。冷たい麦茶を飲んで、ベランダで少し涼んでから横になった。夏の夜は寝苦しいけれど、この季節特有の、世界がどこかそわそわした感じも、嫌いではない。
写メ日記
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滝の投稿
夏
06/19 08:25 更新
何もしないことの難しさ
06/18 08:33 更新
何もしないでいるのは、思っているより難しい。少し時間が空くと、スマホを見たり、用事を探したり、何かで埋めたくなる。空白に耐えられない。何もしていない自分が、無価値に思えてしまう。
でも、本当の休息は、何かをしている休息じゃなくて、何もしていない休息だ。動画を見るのも、ゲームをするのも、頭は動き続けている。本当に体と頭が休まるのは、何の刺激も入れずに、ただぼうっとしているときだ。
何もしない時間を意識的にとる。スマホを置いて、窓の外を眺めるだけ。最初は落ち着かないけれど、慣れてくると、その空白がいちばん自分を回復させてくれることに気づく。何もしないことは、サボりじゃない。それも立派な、自分のケアのひとつだ 🫧
安心して泣くということ
06/17 09:03 更新
つらくて泣くのはわかりやすい。でも、安心して泣くというのもある。ずっと気を張っていた人が、やっと力を抜ける場所にたどり着いたとき、こらえていたものが涙になってあふれる。それは悲しみじゃなくて、むしろ解放に近い。
気を張り続けているあいだは、泣くこともできない。泣いている余裕すらなくて、ただ前に進むしかない。だから、安心したときに初めて、たまっていた感情が出口を見つける。安心の涙は、ようやくここで休んでいいんだ、と体が許可を出した証拠だ。
そういう涙を見ると、ああこの人はずっと頑張ってきたんだな、と思う。だから、泣かないでください、なんて言わない。泣いていい場所で、泣いていいタイミングで、ちゃんと泣けたこと。それは弱さじゃなくて、ようやく自分をゆるめられたという、回復のはじまりだ 🫧
考えるのをやめる練習
06/16 08:40 更新
考えても答えが出ないことを、延々と考えてしまう。それが眠れない夜の正体だったりする。やめればいいとわかっていても、頭は勝手に動き出す。考えるのをやめる、というのは、努力してやめるものじゃなくて、たぶん別の何かに意識を移すことなんだと思う。
無理にやめようとすると、やめようとすること自体が新しい考えごとになって、余計にこじれる。だから、考えないようにする、じゃなくて、別のことに注意を向ける。呼吸を数える、足の裏の感覚に集中する、雨の音を聞く。意識の置き場所を、頭から体に移す。
それを繰り返しているうちに、考えても仕方ないことは、考えなくても困らない、ということが体でわかってくる。最初はうまくいかなくても、練習しているうちに少しずつできるようになる🫧
待っている時間
06/15 09:13 更新
何かを待つというのは、たいてい退屈で、もどかしいものだ。梅雨明けを待つ、結果を待つ、誰かの返事を待つ。待っているあいだは、宙ぶらりんで落ち着かない。早く来てほしい、早く終わってほしい、と気持ちが先に行ってしまう。
でも、待つ時間そのものにも、独特の味わいがある。まだ来ていないものを想像する楽しみ、来たときの喜びを膨らませる時間。手に入った瞬間より、待っているあいだのほうが、実は気持ちが豊かだったりする。
だから、待つことを全部無駄な時間だと思わなくていい。早く先に進みたい気持ちはわかるけれど、宙ぶらりんの今を、今なりに過ごしてみる。梅雨明けを待つこの時期も、終わってしまえば少しなつかしくなる。待っている時間も、ちゃんと人生の一部だ 🫧
雨の日の記憶
06/12 09:27 更新
雨の音を聞くと落ち着くのは、理屈じゃなく体が覚えているものなんだと思う。子どもの頃、雨で外に出られない日、家の中で過ごした時間。布団の中で聞いた雨音、窓ガラスを伝う水滴をずっと眺めていた午後。ああいう記憶は、大人になっても体のどこかに残っている。
雨は予定を狂わせるし、洗濯物は乾かないし、足元は濡れる。困りごとを数えればきりがない。でも同時に、雨は、今日は無理しなくていいよ、という口実をくれる。外に出られないなら、家でゆっくりするしかない。その、しかない、が、たまにはありがたい。
晴れの日には晴れの日の過ごし方があって、雨の日には雨の日の過ごし方がある。どちらが良いというものでもない。雨音をBGMにして、家の中で静かに過ごす日があってもいい。子どもの頃の自分が知っていたあの安心感を、たまには思い出してみる 🍃
外側から変える日
06/11 08:27 更新
気分を変えたいとき、内面からじゃなくて外側から手をつけるのは、ちゃんと理にかなっていると思う。髪を切る、部屋の模様替えをする、新しい靴を履く。形から入る、というと軽く聞こえるけれど、形は思っているより中身に影響する。
気分が落ちているときに、内面を直接変えようとしても難しい。前向きに考えよう、と思って前向きになれるなら苦労しない。でも、外側ならすぐに変えられる。シーツを洗う、窓を拭く、散髪に行く。手を動かせば確実に変わるものから始める。
外側が変わると、それを見ている自分の気分が少しずつついてくる。さっぱりした髪、片付いた部屋、きれいな窓。小さな変化が、停滞していた空気を動かしてくれる。心が動かない日は、先に体と環境を動かしてみる。順番は、どちらからでもいいんだと思う ☁️
小さな約束の力
06/10 08:41 更新
また来ます、また連絡します、また会いましょう。社交辞令と言われればそれまでの言葉だけど、本気で言われた、また、には不思議な力がある。未来に小さな点をひとつ打ってもらえたような感覚。その点があるだけで、日々がほんの少し前向きになる。
逆に、自分が言う側のときも同じだ。また行きたい店に、また行きますと伝える。また会いたい人に、また会いましょうと言う。言葉にすることで、ぼんやりした願望が、ゆるい約束に変わる。そして人は、約束があると、ちゃんとそこへ向かっていける。
大きな目標や計画じゃなくていい。来月またあそこへ行く、今度あの人とごはんを食べる。そのくらいの小さな約束を、未来のあちこちに置いておく。それが、毎日を進んでいくための小さな灯りになる気がする 🫧
何者でもなくていい時間
06/09 08:23 更新
人は日常のなかで、いくつもの役割を背負っている。会社では肩書きを、家では立場を、人間関係では期待される自分を演じている。それ自体は悪いことじゃないけれど、ずっと役割の中にいると、素の自分がどこかへ行ってしまう。
だから、何者でもなくていい時間というのは、思っているより貴重だ。誰かの期待に応えなくていい、評価されなくていい、ただ存在しているだけでいい時間。そこでようやく、人は本当に力を抜ける。
そういう時間や場所を、一つでも持っておくといい。それは施術室でなくてもいい。一人で入る風呂でも、深夜の散歩でも、誰も知らない喫茶店でもいい。役割を全部おろして、ただの自分に戻れる場所。それがあるかないかで、日々の重さはずいぶん変わる 🍃
愚痴を言える場所
06/08 09:08 更新
愚痴は良くないもの、と思われがちだ。前向きじゃない、生産的じゃない、聞かされるほうも疲れる。だから、愚痴を言わないように我慢している人は多い。でも、ためこんだネガティブな感情は、どこにも行き場がないと、体や心の奥に沈んでいく。
ちゃんと愚痴を言える場所を持っている人は、案外健康だ。外に出してしまえば、それでひと区切りつくことも多い。解決しなくても、聞いてもらえただけで気が済む、ということがある。愚痴は、問題解決のためじゃなく、感情の排水みたいなものだ。
もちろん、ずっと愚痴ばかりだと自分もまわりもしんどくなる。でも、たまに吐き出す場所があるのは、むしろ前向きに生きるために必要なことだと思う。我慢して笑っているより、ちゃんと吐き出してすっきりするほうが、結局は健やかでいられる ☁️

























































































